(1976年1月30日受理)
On the Genetic Effects of Low-Level Tritium
Mainly on the Chromosome Aberrations Induced by Tritium
Tada-aka HORI*1 and Sayaka NAKAI*1
*1放射線医学総合研究所遺伝研究部;千葉市穴川4-9-1(〒280)
Division of Gerletics, National Institute of Radiological
Sciences; 9-1, Anagawa 4-home, Chibashi,Chiba-ken.
Genetic risk assessment for potential hazard from environmental tritium to man becomes important with increasing nuclear-power industry. The purpose of this short review is to discuss the possible genetic effects of tritium from a view of genetic risk estimation.
The discussion is based mainly on our experimental results on the chromosome aberrations induced in human lymphocytes by tritium at the very low-level. The types of chromosome aberrations induced by radiation from tritium incorporated into the cells are mostly chromatid types. The most interesting finding is that the dose-response relationship observed in both tritiated-water and tritiated-thymidine is composed of two phases. The examination on the nature of two-phase dose-response relationship is very important not only for the mechanisms of chromosome aberrations, but also for the evaluation of genetic risk from low-level radiation.
[編集者 解説] この論文の主要な結論は「3H一チミジンの場合は, 3×10-2μCi/mLのところで曲線が折れ曲がっている。」である。3×10-2μCi/mLは、ベクレル/Lの単位に直せば、111万ベクレル/Lという恐ろしい濃度である。今回、東京電力が福島県沖から流そうとしている「処理水」=核燃料デブリ汚染水のトリチウム濃度は最大で1500ベクレル/Lであるから、その740倍もの濃さの濃度である。
実は、この論文の筆者、堀雅明、中井斌は「実験および考察」では書いていないが、重要なトリチウム水(HTO)の染色体切断の可能性について、第1表で示唆している。これはそれぞれの数値を良く読まないとわからない。ダウンロードして拡大して読んで欲しい。
と3Hーチミジン(3HーTdR)によって誘発された染色体異常の種類とその頻度 堀雅明 中井斌 1976年-1-1024x627.jpg)
一番上が「control」(対照郡)である。これが被ばくしていないヒトリンパ球における、染色体切断数を表している。次が「HTO」(トリチウム水)で被ばくさせたヒトリンパ球における、染色体の切断数。最後が「3Hーチミジン」(トリチウムーチミジン)で被ばくされたヒトリンパ球における、染色体の切断数である。
この「対照群」の染色分体の異常数と「HTO」の染色分体の異常数とを見比べて欲しい。赤枠で囲ってある部分である。
対照群 3.88%
37ベクレル/L 4.34%
37000ベクレル/L 4.15%
370000ベクレル/L 4.55%
である。つまり、たった37ベクレル/Lのトリチウム水でも対照群より多い染色分体異常が発生した、ということを示唆している。興味深いのは、37000ベクレル/Lでいったん染色分体異常数が下がることである。また、370000ベクレル/Lから上がっている。これはオーバーキル(殺し過ぎ)を示している可能性がある。
また、細胞1個あたりの染色分体または同腕染色分体切断数の割合(表の一番右の列)でも、
対照郡 0.039%
37ベクレル/L 0.046%
37000ベクレル/L 0.042%
370000ベクレル/L 0.046%
と37ベクレル/Lでも対照群より多い「細胞1個あたりの切断数」が観測されている。37000ベクレル/Lでいったん下がり、この0.046%は370000ベクレル/Lと等しい。
実は、このヒトリンパ球における、トリチウム水(HTO)とトリチウムーチミジン(3H-TdR)の内部被ばく研究は、国連科学委員会(UNSCEAR)1977年報告にも採用されている。

赤枠で囲った部分を訳すと以下のようになる。
「375.堀と中井(233)およびBocianら(39)は、in vitroでトリチウム水に暴露されたヒトリンパ球における染色体異常の誘発について報告している。HoriとNakaiの研究では、トリチウムの濃度は1× 10-6 μCi/mlから1× 10-2 μCi/ml(編集者注 37ベクレル/Lから370000ベクレル/L)で、細胞は培養期間中(48時間)暴露された。Bocian らは 2 種類のレジメンを用いた。1 つは(著者らの用語では「急性暴露」)、リンパ球を PHA 刺激の前に 2 時間暴露し(濃度範囲、1.71~14.36 mCi/ml)、その後洗浄して培養したもの(53 時間培養)、もう 1 つは(「長期シリーズ」)、細胞を 53 時間暴露したものである(濃度範囲、0.063~0.51 mCi/ml)。
376.その結果、長時間の被曝(48時間または53時間)で生じた異常は、ギャップ、欠失、断片などの染色分体タイプが多く、染色分体交換は比較的少なかった。染色体交換は比較的少なかった。堀と中井が用いた濃度範囲では、低濃度では誘発される切断の数に対する線量効果曲線は非常に複雑であった。Bocianらの研究では、彼らが用いた濃度範囲では Bocianらの研究および彼らが用いた濃度範囲では、染色分体異常の頻度は線量に比例して直線的に増加した。しかし、2つの著者グループ間の頻度の定量的比較は、各グループが1つの固定時間しか使用しておらず(しかし異なる)、さらに濃度の範囲も異なっていたため不可能であった。」
すなわち、国連科学委員会(UNSCEAR)も、堀雅明、中井斌がヒトリンパ球(マウスやヒラメではない)で行った低線量トリチウム内部被ばく実験に対して、染色分体ギャップ(切断)が多く起きること、そして、低濃度でも切断が誘発される可能性を認めている。
しかし、奇妙なことに、国連科学委員会(UNSCEAR)が参照文献として上げた、堀と中井(233)
Hori, T. and S. Nakai. Chromosome aberrations induced by low level tritiated water. Paper submitted to UNSCEAR.
にも、また、1977年に発表された
UNUSUAL DOSE–RESPONSE OF CHROMOSOME ABERRATIONS INDUCED IN HUMAN LYMPHOCYTES BY VERY LOW DOSE EXPOSURES TO TRITIUM TADA-AKI HORI and SAYAKA NAKAI 1978年
にも、トリチウム水 37ベクレル/Lの実験結果の記述はない。削除されている。
と3Hーチミジン(3HーTdR)の慢性被ばくによって誘発されたヒトリンパ球の染色体異常の表 1978年 中井斌-1024x679.jpg)
しかし、以下の日本語の保健物理に1976年に掲載された論文には、この37ベクレル/Lのヒトリンパ球の被ばくの結果が掲載されている。是非、読んでいただきたい。
以上、解説を終わる。
2023年8月5日
内部被ばくを考える市民研究会 川根眞也
低レベル・トリチウムの遺伝的効果について 特に染色体異常を中心に 堀雅明1, 中井斌1 保健物理, 11, 1~11(1976) 総説
1 はじめに
近年, 原子力平和利用としての原子力発電の発展に伴い, 将来, 原子炉および核燃料再処理施設から環境中に放出されるトリチウムの量が膨大なものになることが予想され, ヒトに対するトリチウムの影響の問題が世界的に関心をもたれるようになってきた。トリチウムに関する研究論文の数をみても, 第1図に示されるように, 過去10年間に20倍以上にも増加してきている。原子力施設から放出されるトリチウムは主として, トリチウム水(HTO)の形で環境中に放出されるため, 地球上の生物圏内にかなり急速に, しかも均等に分布する性質をもっている。したがって, 世界的にトリチウムの濃度が上昇すると, 個人の被曝線量の増加はわずかでも, 世界の人類集団の被曝線量を考えるなら, その遺伝線量はかなり大きいものとなって, 遺伝的障害の確率も軽視できないと予想されなくもない。これら遺伝的障害の確率の確定には, 単に被曝線量の推定のみによって決してこと足りるものでなく, トリチウムの遺伝障害についての, 線量効果関係の知見, 特に予想される低線量域のデータが人体へのリスクの推定のかなめとなるものである。
トリチウムの生体に及ぼす影響(生物効果)については, transmutationの効果とも関連してこれまで多くの研究がなされてきた2)。しかし, 遺伝的効果についての研究は少なく, 特に低レベルの効果については, まったくといってよいほど研究がなされていない, のが現状である。したがって本稿では, 放医研における「低レベル放射線の人体に対する遺伝的危険度の推定に関する研究」の一環として, われわれの行っている「トリチウムによる染色体異常の研究」を中心に, トリチウムの遺伝的効果について考察することとする。染色体異常(染色体突然変異)は遺伝子突然変異とならんで, 遺伝障害の2大要因である。そこで, 本稿ではまず, 突然変異としての染色体異常とヒトでの染色体異常について簡単な説明をして, ついでわれわれの研究結果を紹介し, 文献的考察を試みて, トリチウムの遺伝的効果一般について言及する。
-668x1024.jpg)
II突然変異としての染色体異常
ヒトを含めたあらゆる生物の基本的性質は, 親から子に伝わる遺伝情報に基づくものである。この遺伝情報は, 遺伝物質であるDNAの分子構造の塩基配列によって決定される。遺伝情報の単位となるのが遺伝子(gene)で, ヒトではその数はおよそ3万程度と推算されている。遺伝子DNAは, 高等生物では核内に存在する塩基性色素で染められる構造体, すなわち染色体(chromosome)に, そのほとんどが存在する。ヒトでは, その数は46本ある。細胞の分裂・増殖に際しては, このDNA分子の正確な複製が先行し, 複製されたDNAが染色体を構成して, これが分裂細胞に均等に分配される(第2図参照)。
すなわち, 細胞分裂には遺伝子DNA分子の正確な塩基配列のコピーの複製に基づいた, 遺伝情報の正確な伝達を伴い, このような遺伝情報は生殖細胞の分裂, 受精を通じて後代の子孫に伝達(遺伝)される。したがって, この過程中に遺伝情報に変化を生ずると, その変化は正確に複製されて後代に伝わり, 表現型になんらかの異常を生じることになる。これが突然変異(mutation)である。突然変異にはDNA分子の塩基配列の変化を含む, 遺伝子レベルでの突然変異(gene mutation)と, 光学顕微鏡下で認識される, 染色体レベルでの変化(chromosomal mutation) に区別される。後者は細胞学の伝統から, 染色体異常 (chromosome aberration)とも呼ぼれる。染色体は遺伝子の集合体であるので, 染色体異常は当然これを有する細胞の遺伝情報に大きな変化をもたらすことになる。このような理由で, 放射線による染色体異常の誘発の線量効果関係のデータは, 遺伝的リスクの推定に欠かすことのできない重要なポイントである(国連科学委員会報告, UNSCEA19723), アメリカ学士院報告BEIR19724))。
IIIヒトの染色体とその異常
ヒトの染色体は22対, 44本の常染色体(autosomes)と2本の性染色体(sex chromosomes)とから構成されている。現在ではヒトのすべての染色体を特殊な処理をすることによって, 同定識別することが可能となった。ここではヒトの染色体を例にとって, 染色体異常とその遺伝的効果について概略を述べる。
1. 染色体の数的異常
数的異常は, 倍数体(polyploid)と異数体(aneuploid)に大別される。倍数体とは基本的染色体数が整数倍加している場合で, ヒトの場合は致死的で流産胎児に発見されている。異数体はある染色体が1本以上多い過剰(hyperploid)と, 1本以上少ない欠失(hypoploid)の2とおりがある。この異数体の生じる機構としては, 配偶子の減数分裂時での不分離(non-disjunction)が考えられている。常染色体の数的変異によるヒトの遺伝的疾患として, よく知られているのが, 21番目の染色体が1本多いダウン症候群で, わが国では出生児700人に1人の割合で存在する。性染色体の数的変異にはいろんな型のものが報告されているが, すべて, 性の分化あるいは機能に関してなんらかの障害を伴っている。また染色体の数的異常は, 死産の大きな原因にもなっている。
2. 染色体の構造異常
染色体の構造異常は, 染色体DNAにおこった切断が原因となっている。切断端が, 切断としてそのまま残るか, あるいは他の染色体に転座するかによって種々の構造変異が生じる(第3図参照)。大別すると, 染色体型(chromosome type)と染色分体型(chromatid type)とがある。一般に染色体DNAの複製前に切断がおこると, 染色体型の異常となり, 複製後に切断がおこると,染色分体型の異常となることが知られている。染色体型としては染色体切断(fragment), 二動原体染色体(dicentric chromosome), 環状染色体(ring chromosome),逆位(inversion)あるいは転座(translocation)などがある。染色分体型には, 染色分体切断(chromatid break)や染色分体間組換(chromatid interchange)などがある。
動原体をもたない断片(fragment)は細胞分裂に際して消失するし, 二動原体染色体は分裂の異常により細胞致死を招く。このように分裂に際して支障をきたし, 分裂後, 染色体の構成が変化するような染色体異常を, 不安定な(unstable)異常という。これに対して, 染色体数の異常や転座のような形態のうえで
.jpg)
は異常であっても分裂に支障がないものを, 安定な(stable)異常という。ヒトの遺伝的染色体異常疾患として知られているものは, すべて安定型のものである。
染色体の一部または1本全部が消失すれば, 当然遺伝物質の欠損を生じる。相同染色体の一方が欠失したときには, 半接合的(hemizygous)になって劣性遺伝形質が優性として表現されることになり有害である。ネコ泣症(cri du chat)として知られているヒトの異常は, 5番目の染色体の短腕の一部が欠失したものである。転座も多くの場合, 遺伝子の平衡的形質発現に影響を与え遺伝的効果をひきおこす。転座型ダウン症候群(D群染色体と21番目染色体間)の転座がその一例である。奇形児の出産には, このような転座がかなりの原因になることが知られている。
IVトリチウムによるヒトの培養
リンパ球における染色体異常
電離放射線の照射によって前節に述べたすべての型の染色体異常, すなわち, 染色体に数および構造上の種々の異常が誘発されることが, 古くから植物細胞やヒトを含めた動物の培養細胞を用いてよく研究されている6,7)。また, 種々の放射性核種の内部被曝による染色体異常についても, 多くの研究がなされてきている8)。ヒトの遺伝障害の推定に関連したこの種の研究による特記すべき成果のひとつは, ヒトのリンパ球の染色体異常の種類,出現頻度の線量効果関係のデータの解析に基づく, 放射線被曝者や放射線取扱者などの被曝線量を推定する biological dosimetryの手法の確立であろう9)。しかし, ここになお残された大きな問題点がある。すなわち低レベル(低線量および低線量率)の効果についての詳細な研究は, まだなされていないことである。したがって, 低線量域のリスクの推定は高線量域でのデータから単純な外挿に頼らざるを得ず, 実証的なデータは得られていない。このような背景のもとに, ここで低レベルのトリチウムの内部被曝による染色体異常についてのわれわれの研究結果を紹介する。この研究の目的は, ヒトの培養リンパ球にとり込まれたトリチウムによる内部被曝, 特に可能な限りの低レベルの遺伝的影響の線量効果関係を染色体異常を指標として研究し, またトリチウム水によって誘発される染色体異常の種類とその濃度効果を, 他の3H-標識化合物の効果とともに比較検討して, その機構についても解析を加えることにある。
1. 実験方法
健康な成人男子から採血し, 白血球を含む血漿分画を分離する。この分画をMOORHEADらの改良法を用い,PHAを含む合成培地で培養(37℃, 48時間)する。この際, 種々の濃度のトリチウム(トリチウム水, TRS-1The Radiological Center製およびDNA, RNA, タンパク合成の直接の前駆体である3H-チミジン, 3H-ウリジン, 3H-ロイシン)を培地に加える。培養後コルセミド処理(1×10一6M 5時間)し, 蓄積された小リンパ球の第1分裂中期の染色体を, 低張液処理, 固定(氷酢酸1:メチルアルコール3)した後, 引火乾燥法により標本を作製して, ギムザ染色を行なう。染色体異常の分類は研究者によって必ずしも一定していないので, ここでは第4図に示す分類にしたがってデータを解析した。なお, トリチウムの処理液の濃度は10-2μCi/mLまでの範囲を, 液体シンチレーションカウンターによって測定されてある。
(編者注:10-2μCi/mL=370Bq/mL)

(1)トリチウム水と3H-チミジンによって誘発される染色体異常の濃度効果関係
第1表は種々の3H濃度のトリチウム水と3H-チミジンによって誘発された染色体異常の種類と, その発生率を示したものである。第5図に, 誘発された染色体異常の例を示してある。いずれの場合もトリチウムによって誘発される染色体異常は, そのほとんどのものが染色分体型の切断であった。トリチウム
と3Hーチミジン(3HーTdR)によって誘発された染色体異常の種類とその頻度 堀雅明 中井斌 1976年-1024x627.jpg)
水の場合, 高濃度域で二動原体, あるいは環状染色体の染色体型の異常が観察された。3H-チミジンの場合には, 高濃度域でもこの染色体型の異常は観察されなかった。この点については,後項で検討する。もっと高濃度のトリチウム水, 3H-チミジンは, 小リンパ球の細胞分裂を阻害する。トリチウム水の場合, 10μCi/mL以上の濃度では, コルセミドに、よって蓄積される第1分裂中期の核板の出現頻度が減少し, 1mCi/mLでは中期核板はほとんど観察されなかった。
(編者注:10μCi/mL=37万Bq/mL 1mCi/mL=37,00万Bq/mL)
第1表の末欄の数値は, 細胞当りの染色体分体の切断数を示したもので, この際, 染色分体間組換えおよび染色体型異常は, 2個の切断が関与しているものとして計算してある。
第6図は, 上記の値を用いて3H-濃度と染色体異常の発生率の関係を両対数グラフとして示したものである。この図で興味ある点は, トリチウム水, 3H-チミジン, いずれの場合もその濃度効果曲線が, ある濃度のところで折れ曲がって, いわゆる二相性を示していることである。トリチウム水の場合, 5μCi/mL以上の濃度のところでは, 濃度効果曲線がY=0. 020.95(Y=細胞当りの染色分体切断数, D=濃度μCi/mL)となり, 染色体切断の単一ヒット反応をよく反映しているが, 5μCi/mL以下の濃度では, y=0.09D0.12のゆるい勾配となる。0. 001μCi/mL以下の濃度では, トリチウム処理を施さない対照区の染色体異常発生率(0. 04)と等しくなり, 統計的な有意差は認められなくなる。
(編者注:5μCi/mL=18.5万Bq/mL 0.001mCi/mL=3.7万Bq/mL)
一方, 3H一チミジンの場合は, 3×10-2μCi/mLのところで曲線が折れ曲がっている。高濃度域では濃度効果曲線がY=1. 17D0.70となり, トリチウム水と同様, 単一ヒット型のカイネティックスを示しているが, 低濃度域ではY=0. 13D0.12で, トリチウム水の場合の低線量域での曲線と同様のゆるい勾配となっている。
(編者注:3×10-2μCi/mL=1,110Bq/mL)
また, この図から, 3H-チミジンの染色体異常誘発の効果はトリチウム水の場合に比べて, 約100倍ほど高いことがわかる。このことは多分, 染色体異常の直接的標的である染色体DNAに3H-チミジンが特異的に, DNA複製期にとり込まれるためであろうと考えられる。
とトリチウムーチミジン(3HーTdR)によって誘発された染色体異常の例-613x1024.jpg)
と3Hーチミジン(3HーTdR)による染色体異常の濃度効果曲線 堀雅明 中井斌 1976年-1024x854.jpg)
(2)濃度効果曲線の二相性の生物学的意味
放射線によって誘発される染色体異常, 特に二動原体染色体および環状染色体の線量:効果は2次曲線を示し,これら染色体異常の生成はいわゆるquadratic model,すなわちY=C+αD+βD2(Y;収量, C;自然誘発頻度, α, β;線量Dの係数)の適用されることが一般に支持されている。この意味するところは, この型の染色体異常の生成には, 放射線の標的への1ヒットおよび2ヒットの事象の両者が混在して関係する, ものとして解釈されている。この1ヒット, 2ヒット事象の相対量は,標的の大きさと放射線の線質により定まると考えられるので, ミクロのレベルでは本質的には2ヒットの事象として解釈される。一方, 放射線によって誘発される他の型の染色体異常, すなわち染色体切断(fragment)の生成の線量効果は, 少なくとも急照射, 高線量の条件下では線質にかかわりなく直線関係を示すものとして報告され, したがって本質的には1ヒットの事象として解釈されている。しかし, 低線量域でのデータは得られておらず, 高線量よりの推測によらざるを得ない点を指摘しておきたい。以上の結果を基礎におくと, 染色体異常生成の最も単純な生物学的モデルとして, 染色体DNAの切断が1ヒットの放射線作用により生じ, これが染色体の切断を導く。また, 二動原体, 環状染色体などの交換型の染色体異常の生成は, 2個の染色体DNAの切断によって導かれる, と考えることができる。
さて, トリチウムの内部被曝によるわれわれの実験結果は, 染色分体の切断に関して明らかな2相性の濃度効果曲線を示した。高線量域では, 染色体切断に関する従来の実験結果と同じく, 1ヒットの線量効果を示している。ここに問題となるのは低線量域の線量効果であって, 高線量域の約1/10ヒットの線量効果しか示していない。これに対する解釈として, いくつかのモデルが考えられる。最も妥当な説明の1つは, 細胞自体のもつ放射線障害の修復能力の効果が低線量域で顕著になることによる, と考えることである。すなわち, 低濃度域ではβ線によって誘発される染色体DNAの切断の頻度が低く,したがって, この領域では細胞の修復能力によって切断の大部分が修復されるので, 染色分体の切断頻度は減少する。一方高濃度域では, 細胞の修復能力に比べ, 染色体DNAの切断数が上回ることとなり, 濃度に比例して
誘発頻度が上昇すると解釈される。以上の仮設を支持するものとして, 次のようなことが考えられる。すなわち3H-チミジンはDNA複製期に特異的にとり込まれることがよく知られているので, 染色分体の切断のほとんどはDNA中のトリチウムから放出されるβ線によって生じる, と考えてよいであろう。ところで, トリチウム水の場合にも, 水素置換によって核酸の前駆物質にとり込まれることが最近の研究で明らかになっているので10,11),本実験でのトリチウム水の効果が3H-チミジンの約100倍ほど低いことは, トリチウム水中のトリチウムのDNAへのとり込みをある程度反映しているとも考えられる。このようにして, 染色体DNAにとり込まれたトリチウムはDNA鎖を切断するが, 実はその切断の大部分が修復されることが, 最近アルカリショ糖勾配法を用いた分子レベルの研究によって明らかとなってきた12)。
次に考えられるモデルは, 染色分体の切断のためには, その標的に対しいくつかのDNA鎖(単鎖あるいは二重鎖)切断の蓄積を必要とする, 考え方である。このモデルに関連し, 小川・富沢13)の32Pの内部被曝によるλファージ(二重鎖DNA)の不活性化実験が想起される。この研究において, 32P 1個の崩壊による二重鎖DNAの同時切断は必ずしもDNA分子の切断を導かず, 約10個以上のヌクレヌクレオチッド対によって保持されることが示されている。
これらのモデルの当否は現在のところ, いずれとも断じがたい。実際には, 染色分体の切断はこれら両者のバランスによって生じていることも充分に考えられる。いずれにしても今後, 外部照射による低レベルの実験との比較検討などを通じ, 本問題の解明に努力したいと考えている。
(3)トリチウムの作用と誘発染色体異常の種類
前述したように, トリチウム水と3H-チミジンによって誘発される染色体異常は, そのほとんどのものが染色分体の切断であって, 染色体型の異常は非常に少ないことが一般的特長である。しかし, 高濃度では, 環状染色体などの染色体異常も認められ, その頻度はトリチウム水処理区の方がチミジン処理区に比べ有意に高い, ことが観察された。以上のことは, 次のように考えることができる。すなわち, 培養前のリンパ球はすべてG0期にあるが, PHAの処理によってほぼ同調的に分裂に入る。本実験では全細胞周期, すなわち, G1, S, G2各期を経てM期の全期(48時間)を通じて, トリチウムに連続被曝しているはずである。しかし, 染色分体の切断が圧倒的に多いことから, 染色体が2本の二重鎖DNAになる, S期以降に主としてトリチウムの被曝によるDNAの切断が生じたことになる。このことは前述したように, 3H-チミジンはS期に特異的に取り込まれることによく一致し, またトリチウム水もDNA前駆物質への水素置換を通じて, 主としてS期以降に作用しているのであろう。しかしながら, トリチウム水の場合, 染色体型の異常もみられることは, G1期(1本の染色体が1本の二重鎖DNAよりなる)にも作用しうることを示すものと考えられる(第7図参照)。
とトリチウム水(HTO)による染色体異常誘発の模式図.jpg)
第2表に示すように, RNAおよび蛋白質の前駆物質であるウリジン, ロイシンを3Hで標識したものの染色体異常への作用は, トリチウム水と同一の傾向を示した。ただし, これら誘発効果はトリチウム水よりもかなり高い。このことは, これらの物質がG、期にも作用しうることを示し, またG1期はRNA, 蛋白合成のさかんな時期であることとも符合する。事実, オートラジオグラフィー法, シンチレーションカウンター法により,トリチウム水, 3H一ウリジン, 3H一ロイシンが全細胞周期を通じ, 細胞および核にとり込まれるのを確かめることができた。以上の結果を総合すると, トリチウム水はDNA, RNA, 蛋白質の前駆物質を通じて, 主としてS期に一部G1期において染色体DNAに作用を与え, 染色体切断を導くものと考えられる。
とトリチウムロイシン(3HーLeu)によって誘発されたヒトリンパ球の染色体異常の種類と頻度-1024x510.jpg)
Vトリチウムの遺伝効果についての文献的考察
1. 染色体異常
トリチウムによって染色体異常が誘発されることは,古くから知られている。TAYLOR14)が植物 (Bellevalia)の根端細胞で染色体異常が誘発される, 古典的な報告を1958年に発表して以来, 主として3H一チミジンによる染色体異常の誘発が, 多くの動植物細胞を用いて報告されている(ムラサキツユクサ15), タマネギ16), ソラマメ17),ヒトの培養リンパ球18,19)と繊維芽細胞20), チャイニーズ・ハムスタ一細胞21-23), 小カンガルー細胞24), など)。これらの報告のほとんどのものが, 定性的なものである。実験条件や分析方法が異なっているため, 本実験結果と直接に比較検討することはできないが, 3H一チミジンの効果に限れば, すべての報告で一致している点は,誘発される染色体異常がすべて染色分体型の切断あるいは組換えであることである。オートラジオグラフィ一を併用した報告では, 大部分の異常が銀粒子密度の高い細胞, あるいは染色体に起っていることが示されている。われわれの予備的実験でも同様の傾向が観察されたが,一部の報告にも述べられているように, 銀粒子の存在しない染色体にも切断が起っていることも明らかである。トリチウムのβ線の水中での飛程が最大6μmであるとすると, これらの切断が他の染色体にとり込まれたトリチウム, あるいは核内のフリーのトリチウムからβ線によって誘発されたと考えることも可能である。
トリチウム水による染色体異常に関しては, チャイニーズ・ハムスター細胞23)とフタマタ・タンポポ(Crepis)の根端細胞25)で報告されている。染色体異常の種類に関する詳細なデータは記述されていないが, 本実験結果と同様, トリチウム水はこれらの細胞でも染色分体型に加えて染色体型の異常も誘発するようである。
次に, 本実験で得られたトリチウムによる染色体異常の濃度効果の結果を, すでに報告されている結果と比較検討してみる。BREWENとOLIVIERI22)は, 3H一チミジンによって誘発されたチャイニーズ・ハムスター細胞の染色体異常について, 異常の種類別に濃度(線量)効果関係を調べている。誘発される染色体異常はすべて染色分体型の異常で, 染色分体切断(terminal deletion), 両染色分体切断(isochromatid deletion), 染色分体組換え(chromatid exchange)は, すべて直線の濃度効果関係を示すことを報告している。彼らのデータから, 各濃度(0. 63~5.00μCi/mLの濃度範囲)での細胞当りの染色分体切断数を計算して両対数グラフにプロットすると, われわれの結果とよく似た濃度効果直線になる。
DEWEYら23)は, トリチウム水(0. 24~5. 70mCi/mL)による染色体異常誘発の効果を3H-チミジン(0.03~20μCi/mL)と60Coのγ線連続照射, (0. 245~1. 44rads/minの線量率)の誘発効果と比較検討して, 次のような結論を得ている。(1)トリチウム水とγ 線の線量効果曲線は, それぞれ線量の1. 9あるいは1. 8乗に比例する2ヒット型の指数曲線を示すが, 3H-チミジンは1ヒット型の直線線量効果関係を示す。(2)細胞当り1個の染色体異常を誘発する効率は3種の放射線で差異が認められないが, 細胞当り2個の染色体異常を誘発する線量はトリチウム水で490rads, γ線で520rads, 3H一チミジンで820radsであり, 3H一チミジンの効果が低くなっている。
3H一チミジンの濃度効果は, BREWEN and OLIVIERIとわれわれの結果とよく一致している。トリチウム水に関する結論は, われわれの結果と異なっているようであるが, 彼らの分析方法を考慮すると, 本質的な差はないと結論してよいであろう。低濃度域と高濃度域の濃度勾配は, それぞれ濃度の0. 2乗と1. 3乗で, われわれの実験結果とよく一致している。ただし, 細胞当り1個の染体切断を誘発するトリチウムの効果は, 両者の報告で異なっており, ヒトの培養リンパ球はチャイニーズ・ハムスター細胞に比較して約30倍ほど感受性が高いようである。次に, われわれの実験結果では3H-チミジンの効果がトリチウム水に比較して約100倍ほど高くなっているが, DEWEYらの報告ではトリチウム水の方が高い効果を示している。この差異は, 実験条件の違いによるものであると考えられる。トリチウム水とγ線の実験は, すべての細胞がトリチウムに被曝する条件で行われているのに対して, 3H-チミジンの場合は, 短期間標識によって処理時にS期にある細胞のみを標識し, しかも染色体全体が標識されていない条件下で実験が行われている。多分このことが, 3H-チミジンの効果を低下させている原因の1つであろう。
2. 遺伝子突然変異
トリチウムによる遺伝子突然変異の研究も, その多くは定性的範囲を出ていない。遺伝子分析の進んだ実験系(細菌, ショウジョウバエ, ハツカネズミ)で, トリチウムの効果に関しいくつか報告されている。細菌(E. coli)で, 3H-チミジンを含むいくつかの3H-標識化合物によって遺伝子突然変異が起ること26), ショウジョウバエでは3H-チミジンや3H-ウリジンによって伴性劣性致死突然変異27~30)あるいは優性可視突然変異(小剛毛形質31))が起ることが, またハツカネズミ32)でも3H-チミジンによって優性致死突然変異の起ることが報告されている。最近, CUMMINGとRUSSELL33)のグループによって,トリチウム水によっても突然変異が誘発されることが報告されている。彼らは雄のハツカネズミを体重gm当り0. 5あるいは0. 75mCi/mLのトリチウム水で処理して,その子孫での突然変異の発生を7個の特定遺伝子座位(specific locus mutations)で調べている。post spermatogoniaの時期で処理した(430rads相当)7, 942の子孫より11個, spermatogoniaの時期に処理した(700rad相当)20, 522の子孫より16個の突然変異を得た。前者の突然変異率は, X線, γ線の外部照射で期待される価の範囲内であり, 後者の誘発率も低線量率のγ線の外部照射の価の約2倍に相当するものであった。この結果は, 実験個体数の統計的意味, 被曝線量の推定値の精度を考慮に入れると, 「トリチウムのγ 線の外部照射に対する生物効果比(RBE)は1に等しい」との仮定を否定することはできず, 少なくも2以上の大きな価を越えることはないと考えている。上述したトリチウムの遺伝的効果のRBEに関連し, 遺伝的リスクの推定におけるtransmutation の問題については, 後節にも若干ふれることにする。
VIトリチウムの遺伝的危険度
放射線の遺伝的危険度(genetic risk)を推定するには, (1)人体への被曝量の推定と, (2)被曝量と遺伝的リスクの線量効果関係が2本の柱となるものである。従ってトリチウムの場合も, 単に遺伝的障害の1, 2の形質に関する定性的結果が得られたからといって, また単に被曝量の推定だけによっては, その遺伝的リスクについて云々することはできない。そこで問題となるのはトリチウムの線量効果関係であるが, 遺伝的危険度そのものが実は一般に考えられているような単純な指標ではなくその実体はいわば多くの遺伝学的パラメータの, 多次元的な関数のうえに成り立っているものなのである。しかし, ここでは遺伝的危険度の推定体系, その構造, 換言すれば遺伝的リスクの評価モデルそのものについては詳細な論述をするわけにはいかないので, 主としてわれわれの研究結果を素材にしながら, 低レベルトリチウムの
遺伝的リスクの一般的問題を考えてみることにしたい。
われわれの研究の最もユニークな点は, ヒトのリンパ球細胞を実験材料とし, 染色体異常の1つの型である染色分体の切断を遺伝障害の指標として, 「トリチウムの許容量付近のきわめて低レベルの濃度より高濃度のレベルに至る, 線量効果関係の詳細な定量的データを得た」ことにある。ここではまず問題となるのは, 染色分体切断の遺伝的危険度の指標としての意義であろう。前述したように, 染色体異常(染色体突然変異)は遺伝子突然変異とともに遺伝障害の2大素因であることは, 確立された事実であるといってよい(被曝直後の次代を考えるときに染色体異常の寄与がむしろ大きいとも考えられている)。本実験では, その染色体異常の指標として不安定型で非交換型の染色分体切断が, 染色体異常の指標として用いられた。その理由は安定型で交換型の転座の誘発頻度が低く, このため低レベルの研究に適せず, また転座の判定に技術的困難を伴うので, 判定に問題のあるためであった。しかし, 染色体異常の遺伝的リスクとして意味のあるのは, 実は安定型(特に転座)のものであって, 染色分体切断のような不安定型の異常では直接ないことである(染色分体切断は細胞分裂の過程を通じて失われ, 後代には伝達されない)。そこで, 遺伝的リスクの指標として, 染色分体切断がその意義と有効性を保つためには, 種々の型(安定型一不安定型, 交換型一非交換型)の染色体異常の量的相互関係の推定を可能にする解析的知見が必要となる。現在このことについて, いくつかの興味ある知見が得られつつある。したがって, これに基づいたある種の推定は可能であるが, 定量的目的のためには, まだ充分信頼できる域に到達していないと考えた方が多分穏当であろう。それにもかかわらず, 特にここで指摘しておきたいのは, 転座のような不安定型の染色分体異常であっても不安定型の染色分体切断と同様に, 染色体DNAの切断がその出発点になる事実である。したがってこのことは, 生の数値としても染色分体切断は, 染色体異常一般の遺伝的リスクの上限を示す指標(したがって安全側の指標)として, その役割と意義を充分に有すると信じてよいと思われる。また, 遺伝子突然変異は, 染色体切断の修復の誤りに起因する可能性も存在するので, このことも, 染色分体切断のリスク推定上の意義を強めていることを付記しておきたい。
ついで問題となるのは, 本実験ではヒトの体細胞であるリンパ球を実験材料に選んだことである。この理由は, ヒトについての染色体異常の実験的データを得るために最も適当な材料であるからである(外部被曝その他について彪大な知見がすでに存在する)。実験動物のデータからヒトの遺伝的リスクを推定するとき(ヒトを材料として精密な定量的実験データを得ることは一般にきわめて困難である), いつも問題となるのは実験動物とヒトとの間に存在するギャップ, すなわち生物種差の問題であった。しかし, 本実験はヒトの細胞を材料としているので, この種の難点の無視できることが本研究の大きな狙いでもあった。ただ, 遺伝的リスクの対象となるのは, リンパ球のような体細胞ではなく, 生殖細胞での異常とその伝達である。したがって, ここで体細胞と生殖細胞での染色体異常の誘発頻度の量的関係の細胞種差が問題となる。この問題について, ごく最近に2, 3の知見が得られつつあるが, 信頼できる量的推定を行うのには, まだ問題があると見てよいだろう。しかし, 控え目に見ても, 生殖細胞での染色体異常の頻度が体細胞でのそれより上回るとは現在の知見では考えにくい。しかも本実験では, 処理後の第1分裂中期で観察しているので, 細胞分裂に伴う染色分体切断の伝達のロスは考えられず, ここに示された数値は, 生殖細胞においても,予期される染色体異常の上限値を示すと受けとって多分よいと思われる。マウスの優性致死(転座によると思われる)の研究34)の今後の進展により, この点についての示唆を与えることが期待される。
さて, 上述の制約を念頭におきながら本実験の線量効果関係の結果について考えてみたい。最も特長的なことは, 濃度効果曲線が二相性を示したことである。この結果をリスク推定の立場から考えると, もし高濃度域の直線性から低濃度域での効果を推定するなら, 2μCi/mLの濃度で自然発生頻度の染色分体切断頻度(約0. 4%)と等しくなる。しかし, 実験データの示すところでは, この濃度での頻度は自然発生頻度の2倍となっている(倍加線量の濃度)。さらに, 現在, わが国での許容量(2×10-3μCi/mL)は低濃度のゆるい勾配の領域の中にあるので, したがつて高濃度域からの外挿による推定では許容量付近の染色分体切断の真の価を見誤まることになる。すなわち, 許容量付近のきわめて低いレベルの線量効果を高線量の効果から推定する際には, 充分な考慮の必要なことを示すといえよう。リスク推定の外挿からすると, 本実験の示す染色分体切断の数値は, あくまで染色体異常の遺伝的リスクの上限値であることにあらためて念をおしておきたい。また実験条件からして, 本実験でのトリチウム濃度は, 周囲環境の濃度ではなく, 人体の細胞内での濃度と考えるべきことは言をまたない。厳密な意味での量的なリスクの推定には, 多くの問題に注意すべきである。
(編者注:2μCi/mL=74万Bq/mL 2×10-3μCi/mL=740Bq/mL)
最後に, 遺伝子突然変異の問題に一言しておきたい。遺伝的リスク推定の観点からすると, CUMMINGとRUSSELLらの実験がほとんど唯一のトリチウムについて考察となるデータである。もし, 彼らの解釈が正しいとするなら(RBEは2より大きくない), たとえ被曝線量の推定に多少の技術的問題があるにしても, transmutationの効果はほとんど重視しなくてよいことになる(微生物, ショウジョウバエの実験結果と一致する)。これは, トリチウムのリスクを考えるときに重要である。ただし低レベルの濃度効果については, マウスでは実験的にほとんど不可能であり, 新しい実験法の開発が必要とされる。
VIIおわりに
低レベルのトリチウムの遺伝的効果について, 主として, ヒトのリンパ球の染色体異常に関するわれわれの実験結果をもとにして論じてみた。遺伝学の専門外の方には, いささか難解であったと思う。これは本文中にも蓋しておいたように, 遺伝的リスクの成立体系が多次元の多くのパラメータからなり, 単純でないためである。これは最も高次複雑なヒトについて, しかも, リスクの推定という予測を含む以上当然であるといえる。しかし,遺伝学の原理の最近の進歩は, 解析的, 実験的方法によるシステム的アプローチが充分にな:されれば, これを可能にしていると思われる。われわれの研究は, 直接低レベルでの実証的データによって, トリチウムの遺伝的リスクの推定のための1つの目安を与えたと信ずる。しかし, 本文中に記したように, この値は染色体異常の一リスクの上限値を示しているのに過ぎない。リスク推定の際必要とされる信頼度の高い, またより精度の高い推定値を得るためには, 今後多くの問題解決を必要とする。たとえば, 姉妹染色分体交換(sister chromatid exchange)35)などの鋭敏な方法によって, また遺伝子突然変異の新しい検出法を開発して, 低レベルの実証的データを得ること。また, 本文中に記したいくつかの問題(細胞種差および種々の型の染色体異常の相互関係)の解明のため,たとえば霊長類を用い, 生殖細胞の染色体異常を体細胞のそれと比較検討することなどが当面の課題といえよう。また, 二相性の機構の解明など, 基礎的, 解析的な研究の側面もゆるがせにできない。遺伝的リスクの解明は, 遺伝子・染色体など, ヒトを含めた生物の, 生命としての基本的ユニットを取り扱うがゆえに, 身体的リスクの課題についてもまた多分に示唆するところが多いと信ずる。
本文中に示したヒトのリンパ球による染色体異常の実験は, 放医研の特別研究「低レベル放射線の遺伝的障害の研究」および「トリチウムの生物影響に関する調査研究」の一環として実施されたものである36,37)。本実験の遂行に当り, トリチウム取り扱い, その他に援助をいただいた、当研究所, 樫田義彦博士をはじめ, 環境衛生研究部の諸氏に感謝の意を表します。
参考文献
1) J. J. COHEN and G. H. HIGGINS; The socioeconomic impact of low-level tritium releases to the environment, “Tritium, ” ed. A. A.MOGHISSI and MW. CARTER, 14 (1973).
2) “Tritium, ” ed. A. A. MOGHISSI and M.W.CARTER (1973).
3) United Nations, Report of the United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation, Ionizing Radiation: “Levels and Effects, ” Vol. II, Effect, New York (1972).
4) BEIR Report, The Effects on Populations of Exposure to Low Levels of Ionizing Radiation.
Report of the Advisory Committee on the Biological Effects of Ionizing Radiation. National Academy of Sciences, National Research Council, Washington, D. C., (1972).
5) K. SAX; An analysis of X-ray induced chromosome aberrations in, Tradescantia, Genetics,25, 41 (1940).
6) D. E. LEA; Actions of Radiation on Living Cells, 2nd ed., Cambridge University Press(1955).
7) H. J. EVANS et al.; Human Radiation Cytogenetics,North-Holland Publishing Co. (1967).
S) A. L. BROOKS et al.; Effect of 239PuO2 particle number and size on the frequency and distribution
of chromosome aberrations in the liver of the Chinese hamster, Radiat. Res.,59, 693 (1974).
9) 佐々木正夫, 染色体異常に基づくbiological dosirnetry,放射線生物研究, 3, 3(1968).
10) FT. HATCH and J. A. MAZRIMAS; Tritiation of animals from tritiated water, Radiat. Res.,50, 339 (1972).
11) A. M. UENO; Incorporation of tritium from tritiated water into nucleic acids of Oryzias latipes eggs, Radiat. Res., 59, 629 (1974).
12) J. E. CLEAVER et al.; Biological damages from intranuclear tritium: DNA strand breaks and their repair, Science, 177, 996 (1972).
13) J. TOMIZAWA and T. OGAWA; Breakage of polynucleotide strands by disintegration of radioposphorous atoms in DNA molecules and their repair. II. Simultaneous breakage of both etrarde, J. Mol. Biol., 30, 7 (1967).
14) J. H. TAYLOR; Sister chromatid exchanges in tritium-labeled chromo omen, Genetics, 43, 515 (1958).
15) D. E. WIMBER; Chromosome breakage produced by tritium-labeled thymidine in Trades cantia paldosa, Proc. Natl. Acad. Sci. U. S. A.,45, 839 (1959).
16) H. A. MCQUADE and M. FRIEDKIN; Radiation effects of thymidine 3H and thymidine ‘4C, Exptl. Cell Res., 21, 118 (1960).
17) A. T. NATARAJAN; Chromosome breakage and mitotic inhibition induced by tritiated thymidine in root meristems of Vicia faba, Exptl.Cell Res., 22, 275 (1961).
18) M. A. BENDER et al.; Aberrations induced in human lymphocyte chromosomes by 3H-labeled nucleotides, Cytogenetics, 1, 65 (1962).
19) K. V. BALDEV; Lack of relationship between chromosome aberrations induced by and localized incorporation of 3H-TdR in human leucocytes, Internatl. Congr. Radiat. Res., 206 (1974).
20) CM. OCKEY; Chromatid aberrations resulting from 3H-thymidine incorporation into early and late S periods in human fibroblasts, Int. J. Radiat. Biol., 13, 479 (1967).
21) R. R. KLEVECZ and T. C. Hsu; The differential capacity for RNA synthesis among chromosomes:
a cytological approach, Proc. Natl. Acad. Sci. U. S. A., 52, 811 (1964).
22) J. G. BREWEN and G. OLIVIERI; The kinetics of chromatid aberrations induced in Chinese hamster cells by tritium-labeled thymidine, Radiat. Res., 28, 779 (1966).
23) W. C. DEWEY et al. : Comparisons of tritiated thymidine, tritiated water, and cobalt-60 gamma rays in inducing chromosomal aberrations, Radiat. Res., 24, 214 (1965).
24) C. R. GEARD; Chromosomal aberrations in three successive cell cycles of Wallabia bicolor leucocytes after tritiated thymidine incorporation, Radiat. Res., 61, 118 (1975).
25) T. KUROIWA and N. TANAKA; Effect of THOwater on Crepis chromosomes, Jap. J. Genet., 47, 356 (1972).
26) S. PERSON and R. C. BOCKRATH, Jr.; Differential mutation production by the decay of incorporated tritiated compound in E. coli, Biophys. J., 4, 355 (1964).
27) W. D. KAPKAN and J. E. SISKEN; Genetic and autoradiographic studies of tritiated thymidine in testes of Drosophila melanogaster, Experimentia, 16, 67 (1960).
28) O. STROMNAES; Mutation effect of C14 and H3 labeled DNA precursors injected into Droso phila melanogaster males, Canad. J. Cytol. Genet., 4, 440 (1962).
29) W. D. KAPLAN et al.; Nonrandom distribution of lethals induced by tritiated thymidine in Drosophila melanogaster, Genetics, 49, 701 (1964).
30) P. KIEFT; Induction of recessive lethals by 3H-uridine and 3H-thymidine in Drosophila. Biological Effects of Transmutation and Decay of Incorporated Radioisotopes (Proc. Panel, Vienna, 1967), IAEA, Vienna, 65 (1968).
31) O. STROMNAES and I. KVELLAND; The induction of minute mutations in Drosophila with tritium-labeled thymidine, Genetics, 48, 1559 (1963).
32) A. J. BATEMAN and A. C. CHANDLEY; Mutations induced in the mouse with tritiated thymidine, Nature, 193, 705 (1962).
33) R. B. CUMMING et al.; Tritium-induced specific locus mutation rate in cells of the male mouse, Internatl. Congr. Radiat. Res., 63 (1974).
34) United Nations, Report of the United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation. General Assembly Official Records: Genetic Effects of Radiation (1975).
35) P. PERRY and H. J. EVANS; Cytological detection of mutagen-carcinogen exposure by sister chromatid exchange, Nature, 258, 121 (1975).
36) T. HORI and S. NAKAI; Chromosome aberrations induced in human lymphocytes by tritiated water at low level, J. Radiat. Res., 16, 57 (1975). 37) 堀雅明, 中井斌; 3H-標識化合物によるヒト培養リンパ球における染色体異常, 日本放射線影響学会第18回大会(1975)