これが原子力規制委員会の実態。1000ベクレル/kg超えのキノコご飯を食べて「国の食品規制基準100ベクレル/kgには科学的合理性がない」と、初代原子力規制委員会委員長、田中俊一は読売新聞に語る。[記事1]
年間20ミリシーベルトまで、福島に住民を帰還させている日本政府と福島県。それにお墨付きを与えているのは、原子力規制委員会だ。田中俊一は委員長退任後、飯舘村に住み着いて、しいたけ栽培している。こんな人間を「放射線の専門家」と思って信用しているから、飯舘村から「除染できなくてもいいから避難指示解除させろ」という声が出てくる。[記事2]作られた名声。作られた科学。決して住民の命と健康を守るのには、役に立たない。田中俊一は、福島帰還住民の殺人幇助罪にあたるのではないか。
[記事1]
初代原子力規制委トップ 3.11 地に落ちた信頼 田中俊一さん(75)
2020年10月19日 読売新聞 朝刊25面

[写真1]原子力規制委員会発足式で職員を前に訓示をする田中委員長(東京都港区で、2012年9月19日) 2012年9月19日、東京・六本木のビルの一室。福島の原発事故を受けて新たに発足した国の原子力規制委員会の初代委員長に就いた田中俊一さん(75)=当時67歳=は「やるしかない」と自分に言い聞かせた。
原子力の平和利用を推進してきた自分が、原発を規制する組織のトップを担う。あれだけの事故が起き、国民の視線は厳しい。信頼回復の基本として組織の「独立性」と「透明性」にこだわり、通算240回に上った記者会見のやりとりはすべてインターネットで生中継した。5年の任期を終えた17年9月、最後の会見で、「福島に住む」と宣言した。

東日本大震災の発生から、来年で10年になる。福島県飯舘村の山荘に暮らし、周辺でとれた山菜やキノコを食べながら、復興について考え続けている。(社会部 田中文香)3・11 地に落ちた信頼[写真2]山荘がある雑木林でシイタケの栽培を試みる田中さん。原木は村でとれたものだ(9月23日、福島県飯舘村で)=武藤要撮影 東日本大
3.11 地に落ちた信頼 田中俊一さん(75)
震災が起きた2011年3月11日。茨城県ひたちなか市の自宅で、田中俊一さん(75)=当時66歳=は「大変なことになる」と予感した。ラジオは津波で東京電力福島第一原子力発電所の電源が喪失したと伝えている。すでに原子力の第一線から退いた身だ。何をできるわけでもなかったが、ニュースに耳を傾けた。
「原子力ムラ」の一員として 国民に謝罪
3日後、天皇、皇后両陛下へのご進講の要請を受けた。「現役の人は事故対応で忙しい。だから現役ではない専門家を」と望まれたという。夜中に自家用車を走らせ、東京に向かった。
「炉心を冷却できず、米スリーマイル島の原発事故より重大なことが起きていると想像します」。15日、両陛下にご説明した。予定の時間を超えて熱心なご質問を受けた。
想像をはるかに超える福島の深刻な事態。かつて日本原子力学会の会長も務めた田中さんは、一科学者として「安全神話」へのおごりがあったと責任を感じていた。事故から3週間後、他の科学者らと連名で、国に事故終息のための体制強化を求める建言を公表。文部科学省で開いた記者会見で、田中さんはこう言わずにはいられなかった。
「原子力の平和利用を先頭で進めてきた者として、国民に深く陳謝します」
◇
太平洋戦争末期の1945年1月、福島市で生まれた。7か月後に終戦。国鉄勤務の父に伴い、伊達や会津で育った。数学と理科が好きな子どもだった。
日本はエネルギー資源に乏しく、石油の対日禁輸は戦争の引き金にもなった。「原子力はこれから発展する夢のある分野」。そう考え、東北大で原子核工学を学んだ。
日本原子力研究所(茨城県東海村)に就職し、放射性物質の遮蔽しゃへいや計測に関する研究を進めた。東海研究所の副所長だった99年、燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」のウラン加工施設で臨界事故が発生。現場で放射線量を測定し、収束方法を探った。
◇
「福島で再び人が暮らせるように」。その一心で、田中さんは事故から約2か月後の5月、仲間とともに、汚染が広がっていた福島県飯舘村の長泥地区に入った。
民家周辺の空間線量は毎時10~15マイクロ・シーベルト。一般の人が生活するには高すぎる放射線量だった。屋根や雨どいを高圧洗浄し、土や草をはぎ取る。施設の中ではなく、どこまでも広がる環境への汚染に、打ちのめされる思いだった。
「なかなかむつかしい」。当時の日記に、田中さんはこう書いている。
その後、飯舘村が全村避難となると、隣の伊達市から依頼されて学校や民家での除染作業に加わった。
その姿を、民主党政権(当時)で環境相となった細野豪志氏(49)は現地で見ていた。「原子力ムラ」の一員として国民に謝罪した人、という認識はあったが、実際に長靴姿でスコップを握る姿に「危機的な状況から逃げない。腹が据わっている」とみた。
翌年の2012年9月。環境省の外局として、原子力の規制を担う新たな機関「原子力規制委員会」が発足し、田中さんが初代委員長に選ばれた。
この時の心境を、「ただ夢中だった。地に落ちた原子力への信頼を取り戻すという思いだったが、成算は全くなかった」と振り返る。
記者会見 5年で240回 最後に移住宣言
大きな任務の一つが、安全基準の全面的な見直しだった。新たな基準は、重大事故を二度と起こさないための大がかりな設備を義務づけ、活断層や津波、さらには火山噴火の影響も厳しく見積もるよう定めた。
週1回の記者会見や規制委の会合はすべて公開し、記者との激しいやりとりもインターネットで中継された。
原子力を推進してきた人物が規制の議論を主導することに、批判もあった。世界的にも厳しい基準に、原発推進派からは「過剰規制だ」との声も上がった。原子力研究所時代の上司であり、事故後の記者会見に同席した松浦祥次郎さん(84)は「自分の考えに照らしてつじつまが合わないことがあれば、誰にでもはっきりと物を言う気骨のしっかりした男。色んな圧力はあっただろうが、屈しなかった」と話す。
5年間の任期中、12基が新基準に合格し、5基が再稼働した。通算240回目、最後の記者会見となった17年9月20日。田中さんの心は決まっていた。除染活動で縁のできた飯舘村に移り住み、今度は現場から復興に力を尽くそう。
「一個人ですから、どこまでできるか分からない。でも、やってみたい」
飯舘の恵み食し 村民の帰還願う

[写真3]除染土を再生利用する実証実験で作られた野菜を視察する田中さん(左から2番目)。村民の声に耳を傾け、環境省との橋渡し役を担う(10月6日、飯舘村長泥で)[写真3]イノハナの炊き込みご飯
飯舘村では、村から一軒家を借りて「飯舘山荘」と名付け、17年12月に引っ越した。18年2月には無給の復興アドバイザーに就いた。妻と2人、茨城と行き来しながら、月の半分を村で暮らす。
ともに長泥地区の除染にかかわってきたNPO法人「放射線安全フォーラム」理事の多田順一郎さん(69)は言う。「これまでに培った人脈や経験、知名度を、福島のために利用しようと考えたのだと思う。そういうことができるのは、あの人しかいない」
震災直後から付き合いが続く菅野典雄村長(73)は「色々な科学者が村に来ては、百八十度違うことを言って去って行った。そんな中で、混乱した現場に入って除染に取り組み、今も村に住んでくれる田中先生の科学的な物の考え方を信頼している」と語る。
村内だけでも、除染土を詰めたフレコンバッグは230万個を超える。福島県大熊、双葉両町の中間貯蔵施設で30年保管した後、県外へ持って行くことが法律で決まっているが、田中さんは「他県に受け入れ先を見つけるのは現実的ではない」と懐疑的だ。
飯舘村の長泥地区では、除染土の上にきれいな土をかぶせ、農業ができるよう再生させる事業を、環境省と村で進めている。
春になれば山荘のすぐ裏でコシアブラやタラノメなどの山菜を採り、夏には2人の孫娘を呼び寄せて盆踊りに参加。村で「イノハナ」と呼ばれ、秋の味覚として珍重されてきた香茸こうたけを村の人におすそ分けしてもらうこともある。
不安払拭へ 山菜やキノコ 線量測定し記録
野山でとれる山菜やキノコを食べる前には、山荘に置いた放射線測定器で線量を測り、記録している。イノハナの炊き込みご飯の放射性セシウムは1キロあたり1000ベクレル程度で、国の食品規制基準(1キロあたり100ベクレル)を上回る。
田中さんは、「この基準には科学的合理性がない」と言う。「国の放射線防護の目安は年間1ミリ・シーベルトで、これは7万6000ベクレルのセシウムを摂取した場合の線量。イノハナご飯を70キロ以上も食べることはない。1杯なら、歯医者さんで口内のパノラマ写真を撮ったのと同じか、それ以下だ」
だが、村の野山でとれた物を食べることに抵抗を感じる人もいる。「一度心に宿った不安の払拭ふっしょくは容易ではない」と田中さんは感じている。
田中さんを信頼しつつも、複雑な思いを抱えているのは長泥地区の前行政区長、鴫原しぎはら良友さん(70)。「言っていることはわかるけれど、安全安心を自分の知識のレベルで言われても体が追いつかない」と率直に語る。
農業を営む菅野クニさん(68)は、田中さん宅で友人とともにイノハナご飯を食べた一人だ。線量を測り、数値を確認しながら食べた。「現実にこの村で生きていくには、自分でリスクを見極め、納得することが必要。知識は武器だと思う」。村の人たちは様々に思いを抱え、毎日を暮らしている。
震災前、約6500人いた飯舘村の人口は現在、1480人。田中さんは村の復興には山林資源の活用が欠かせないと考えている。
かつて村では、山のナラの木を原木にしたシイタケ栽培が盛んだった。汚染された原木の表皮からどれだけシイタケに放射性物質が移行するのか。山荘の庭にも菌を植えた原木を置き、シイタケが出てくる日を待つ。「困難な状況の中でも、この村に戻ってもう一度暮らしたい、という人たちの手伝いができれば本望です」。自分の仕事は、まだまだ山積みだと思っている。
田中文香記者 たなか・あやか 2012年入社。北海道支社で行政や司法を担当し、18年8月から東京本社社会部。伊豆大島や三宅島など島しょ部で起きた災害取材などに携わる。福島県飯舘村の田中さん宅でごちそうになった、イノハナの炊き込みご飯のおいしさが忘れられない。31歳。
[記事2]
長泥の居住、村長「住民判断」 飯舘の復興拠点外、全面除染なし検討2020年8月12日 朝日新聞 朝刊 福島版

原発事故の避難指示区域が残る飯舘村の菅野典雄村長は、朝日新聞の取材に応じ、国が全面的な除染をせず避難指示の解除を検討している長泥地区について、「避難指示解除になったら、住もうと住むまいと住民の判断」との見解を示した。一方、国は現時点で居住を想定しておらず、居住も含めた検討が求められる可能性がある。
国は2018年、村の長泥地区に残る避難区域のうち約17%(約186ヘクタール)を「特定復興再生拠点」(復興拠点)と認定した。避難指示解除の要件=キーワード=である「除染作業が十分に進捗(しんちょく)」に基づき、森林や水面以外を全面的に除染し、23年春ごろの解除を目指している。
一方、解除の見通しが立っていなかった残る約83%(約900ヘクタール)の拠点外について、村は2月、「復興公園」を設けて住民が自由に往来できるよう、一括での避難解除を要望。これを受け、国は全面的な除染を行わない代わりに人は住まない想定で、一括解除に向けて調整している。
拠点外に住民登録しているのは11世帯。内閣府によると、長泥地区の拠点外のほとんどが、解除要件の年20ミリシーベルト以下を満たしている。
さらに復興拠点の除染の一環として、拠点外の集落を通る村道と、道の両脇から原則、最大20メートルを除染をする計画もある。こうした部分的な除染も踏まえ、菅野村長は「(居住は)個人の判断。(避難解除後に村が居住を制約することは)しない」と話した。
ただ、それ以外では除染しない場所も多く残るため、内閣府の原子力被災者生活支援チームは「日常的な生活を営むことは想定していない」。滞在時間が居住より短く、被曝(ひばく)のリスクが比較的小さい公園のほか、物流施設など限られた土地活用の案を示し、原子力規制委員会が避難解除の妥当性を審議している。
一方で、同チームは「避難指示が解除されれば、居住を制限するものはないのは事実」と認める。村内に仕事を持ち、避難先から車で片道1時間掛けて通う拠点外の住民の一人は「冬は降雪で通うのが大変。ガソリン代もかさむ。避難解除後は、長泥に戻って住みたい気持ちが強い」と話す。
同チームは避難指示の解除後に居住できるかについて「村の意向が第一。要望があれば改めて(解除の要件を)検討したい」としている。(関根慎一)
◆キーワード
<避難指示の解除要件>
・空間線量率で推定された年間積算線量が20ミリシーベルト以下になることが確実
・インフラや生活関連サービスがおおむね復旧、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗(しんちょく)
・県、市町村、住民との十分な協議
菅野典雄村長特定復興再生拠点を外れた飯舘村長泥地区曲田。事故前、水田だったという場所には雑草が生い茂っていた=7月12日、飯舘村、小玉重隆撮影